インタフェースがゲームを決める

DSやWiiが快進撃を続ける今、インタフェースがゲームを決めると言われるが、さて

ルータの設定とか分からないので娘の友達を呼ぶダメ親
「大戦」は誤植ではありません鉄騎大戦のことです

ゲームはインタラクションだ

 ゲームで評論でもぶちかまそうという人間はコスティキャンのゲーム論を引用したがるもんだが、私は以下の一文をもってコスティキャンを信用しない。

インタラクティブ性がそんなに重要だと思うなら、電灯のスイッチを考えてみるとよい。スイッチを上げると電灯がつく。スイッチを下げると電灯が消える。おお、インタラクティブだ。しかし、これが面白いかね。

 超面白いだろうがボケ!! お前は、子供の頃に電灯を点けたり消したりして親にしかられたことはないのか!! そんなつまらん行儀のいい子供だったのか!! と。
 電灯の点灯消灯がつまらないのは「飽きるまでやったから」ということに気づかんのか。
 飽きるまでやるというのは、つまり「飽きるまではすこぶる面白かった」ということだ。
 スイッチにときめかないやつは、(特にコンピュータ)ゲームを語る資格はねぇ!!どどーん。
「コスティキャンのゲーム論」が未だに示唆に富む文でもあることは、否定できないとしても、あのスタンスは納得いかねぇ。
 コスティキャンを知っていても、かたくなに今まで引用しなかったのは、ほとんどここにあると言っても過言ではない。
 …まぁ、そんな私の憤りはどうでもいいかもしんないが。

 とにかくインタラクティブ性というのは、「メッセージを次へ送るためのクリック」が実はサウンド(ビジュアル)ノベルをコンピュータ上の表現足らしめている一番の部分だと思っているぐらいの俺だ。
 これが無かったらシンクロしたサウンド演出等、映画には全く及ばないし、逆にクリックがあればこそ、その体験の没入感は映画を凌駕しうるのだ。

インタラクションに必要なのはインタフェースだ

 インタラクションとは、つまりプレイヤーがいかに作品に介入できるか、ということだ。
 人がソフトウェアに介入するには何らかの接触部分(ハードウェアインタフェース)が必要だということは、今更言うまでもないが、案外忘れがちなものであることも確かだ。
 例えば、パソコンとふれあうのは実はキーボード+マウスとふれあうことと等しい。べつにCPUやメモリ空間を触れりゃしないのだ。
 コンピュータの感覚的性能はインタフェースで決まる。
 インタフェースの奥で何やってるかなんて「知ったこっちゃない」し、知ってたからといって大抵は何の得にもなりゃしない。
 CPUのビットやクロック競争に飽きたら、コア数やフロップスで争うのか?もう一度言う。「知ったこっちゃねぇ!!」
 あえて存在意義を見つければ、性能のいいCPUはインタフェースに奉仕するために存在するのだ。第一義的なものではない。
 例えばCPU等のハード性能が良くなれば、インクリメンタルサーチができるようになり、アニメーションでフィードバックが行えるようになり、結果インタフェースが向上する。

 コンピュータに必要なのはインタフェースであり、その進化こそがコンピュータの進化であると信じる。
 JISキーボードとマウスは滅びろ、と牛の刻参りに励む俺だ。当然、WindowsやMacのような旧態依然としたOSもね。
 まぁ、そんなわけで当然ゲームの進化もインタフェースの進化抜きには語れないというスンポーだ。

インタフェースには二つの方向がある

 インプットとアウトプットだ。
 人から機械へ、そして機械から人へ戻ってくるもの。両方があってインタラクションが成立する。
 ならば、インタフェースは両方を備えているべきであり、それが自然だ。残念ながら現在のキーボードやマウスにはアウトプットが(ランプ程度しか)無い。
 (タブレットでない)ディスプレイにはインプットが無い。これじゃだめだ。直感的じゃない。

 その点、ディスプレイにタッチペンをつけて双方向化したDS、そしてコントローラに振動機能に加えてスピーカーも備えたWiiは、極めて正しい。
 今になって、ファミコンのコントローラにつけるべきだったのは入力装置であるマイクではなく、出力装置であるスピーカだったと気づいた任天堂はいかにも遅いが、遅すぎたわけではなかった。
 それに比べて、コントローラから振動機能を無くして、純粋な入力装置にしちゃったPS3に未来が描けるだろうか、少なくともインタフェース=コンピュータという、本サイトの常識からするとありえない選択だ(記事を書いた当時、PS3に振動機能はなくなっていたが、しばらくして復活した)

参照「振動機能を考える

 これは優れたインタフェースかどうか?それに迷ったら簡単に分かる方法として、「インプットとアウトプットが両方備わっているか」を考えると良い。
 いいインタフェースは、常にフィードバック…つまり、入力に対する応答、が備わっている筈だ。

 一応、タブレットPCがはやらない理由も書いておく。そんなもん、タブレット用にOSが作られてないから、使いやすい訳ない。
 小手先だけ変えてもしょうがない(その後、タッチ操作前提にOS自体が作られたiPhone、iPadが市場を席巻した)
 そういう意味じゃ、Wiiも安穏としていられる状況ではない。従来のゲームをあのコントローラで使えるようにしただけのものでは先が見えている。
 超面白いゼルダの伝説 トワイライトプリンセスではあるが、その一点から言えば、だめゲーだ。GC版ありきのソフトだから、これは言いがかりに近いのではあるが。
 最初からWiiを前提に作られた続編であるゼルダの伝説 スカイウォードソードは、Wiiリモコンを使いこなした名作だった。任天堂は流石に分かっていた。
 ただし、任天堂以外のソフトは他機種からの移植ものが多く、Wii市場全体としてはWiiリモコンを使いこなすには至らなかった。

映像の進化はどーよ

 さて、画像や音声の向上は、インタフェースの向上に比べて無視していいものか、という問題が出てくる。
 インタフェース至上主義の私は断言する「インタフェースに関わらないなら、無視しても全く構わない」と。

 ただ、画像も音声もインタフェースの一部なので、あだやおろそかにできない。
 高解像度は美しいグラフィックのためだけではなく、文字を沢山表示するために必要だし、コントローラ全体がディスプレイになってカメレオンのようにそこに映像を映し、特にボタンは早くディスプレイ化して、DSのタッチパネルに負けないようになってほしいと思っている。
(WiiUで任天堂がタッチパネルコントローラを採用したが、微妙にそれじゃない感が残る出来となっている)
 そして、音声はサラウンドで後ろの敵の音は後ろから聞こえてほしいし、手元の音は手元から聞こえてほしい。音だけでFPSが十分楽しめる程の音環境が欲しい。

 単純な映像が進化したところで、ディスプレイの中で完結していたら、当然映画のような映像作品の方が美しいわけだし、意味は無い。
 ゲームの映像が進化するなら、当然のことだが同じ技術が使える上にインタラクションを考えなくていい映画は、よほどのことでもない限り何歩か先の映像表現を獲得している。
 ゲームであるなら、結局インタフェースとの関わりを考えないと、映像でさえピーク性能は出ない。インタフェースと見事にシンクロした映像は、ファミコン時代であっても、映画を凌駕していた。
 入力に反応する気持ち良さによって、ゲームの映像の善し悪しは決まり、それこそがプレイヤーの心を揺さぶる原動力となっているからだ。

 また、YouTubeの隆盛からも分かるように、大抵の映像はあのくらいの解像度でOKだったりする。
 何も映像作品のすべてが画質を必要とするわけではないのだ。
 DVDの普及には画質(劣化しないことも含めて)より、薄いことと巻き戻しがいらないことが、もっと強い要因だと思っている。
 音声にしても同様で、CD音質があれば十分で、DVD-Audio音質なんかいらないというか、その存在すら知らないのが普通だろう。
 だいたいこの辺りでOKという部分を超えれば、それ以上の進化はコストに見合わないというのが、一般的なものだ。

インタフェースが良ければ受け入れられるのか

 で、これ以上の映像の進化が消費者には不要であるというなら、インタフェースはどうか。

 ほとんどの消費者はインタフェースを気にしていない。それは例えば「デザイン」という言葉が、「インタフェースデザイン」の意味を含んでいないことでも分かる。
 多くの消費者にとって、デザインとは見た目の善し悪し以外の意味を持っていない。
 本来的には「デザインはいいけど使いにくい」というモノはありえない、使いにくいということはつまり、(インタフェース)デザインが悪いのだ。

 だから、ゲームにとってインタフェースが大事だからといって、インタフェースデザインが消費者の動向を決めてきたのではない、映像でもないし、音でもない。
 消費者が飛びつくのは、話題性という名の面白さだ。今Wiiが売れているのは、インタフェースで話題性を作ることに成功したからであって、インタフェースが良かったのが直接の原因ではない。
 話題性で飛びついた後に、やっとインタフェースに気が回る。
 このへんはゲームに限らず、道具全般に言えることで、いつまでたってもインタフェースの良さは、商品選択の第一基準にはならない。それを使用前に判定するのは難しいものだからだ。
 しかし、使い始めると善し悪しの判定は、ほとんどインタフェースの方に判定基準がシフトする。可愛いと思って買ったコーヒーカップが持ちにくくてイライラする、とかいう類いだ。
 そして、次に商品を買うときに反映されるかといえば、ついつい可愛いのを買って後で後悔する、なんてのがありがちなパターンだ。

 では、制作側としてはインタフェースを良くする必要は無いのか、といえば勿論そんなことは無い。
 その時恐ろしいのは、消費者が悪いインタフェースにぶつかっても、より良いインタフェースを選ぼうという考えにはなかなか至らないということだ。
 「ゲームはプレイしづらい」と大づかみに判断されるだけだ。ゲームは面白いけどプレイしづらい、であるかもしれないし、プレイしづらいからつまらない、かもしれないが。
 特にゲームは必需品ではない。愛想つかされたらそれまでだ。また買おうなどと思わない。娯楽は他でもいいんだし。

 そこで結論。

ええ、インタフェースがゲームを決めますとも