紙憑かり

『コンピュータが発達した現在。ペーパーメディアの将来について考えてみる』

 紙が溢れている。
 本気で紙を減らさないといけない。
 私なんかは所謂「本の虫」なので消費量は多いような気もするが、雑誌をほとんど買わないし、プリンタの動かし方も記憶の彼方なので、全体の消費量を考えると、平均以下と考えていいだろうが、それにしても、部屋中に紙が溢れている、異常である。
 今後、いわゆる発展途上国にこのような状況が波及することを考えると、血の気が引く程恐ろしい。
 熱帯雨林の木が倒れていく音が聞こえてきそうである。

 そこで、先進国が低価格低電力コンピュータ(NC的なもの)を、紙資源を消費しそうな国に送りまくるのがいい、医療・食料支援よりも長期的な視野で見るとずっと役にたつ筈だし、情報を受け取り発信する自由は、何よりも彼等の力となるはずだ。
 識字率が低いのも問題にされるが、言葉を知らないのもコンピュータを使えないのも、教育されていないという意味で等しく、順番としてコンピュータの使い方を先にしたって構わない。それに、どうせコンピュータを学習するなら、鉛筆より先にコンピュータの使い方を教えたほうが面倒がないってものである。
 「パンが無いならケーキを食べれば良いのに」というマリーアントワネットの言葉に似た感触を得る人もいるかと思うが、根本的に違うのは紙を使うよりもコンピュータを使ったほうが結果的に安く付くということだ。
 コンピュータは、Z80(i286とかM6800ぐらいでもOKかな)程度の能力(つまりファミコンレベル)で全く構わない。テキストリーディングにはそう多くのマシンパワーはいらない。
 絵や図は当分(といっても10年はかからないだろうが)我慢してもらうことになるが、初期の大きな問題ではないだろう。
 キーワードは「衛星通信と太陽電池で僻地コンピューティング」である。

偉大なる紙様

 当面の目標として、パルプ紙(木ベースの紙)を生産中止するぐらいの気構えで取り組んでほしいものだ。
 自然に与えるダメージが大きすぎるし、パルプ紙は劣化が激しく情報の保管の観点から見ても、ものの役に立たない。精々数百年しか持たないだろう。漂白のキツい最近の紙は100年も怪しい。
 さらにいえば、森林伐採は結局のところ地元住民に富をもたらさず、ダメージしか残さない。
 暫定的手段として大麻等の草を原料とした紙を作って凌ぐのがいいだろう。こちらは、草ベースのパピルスなどが現在もかなり完全な形で残っていることから考えても、情報の保管力が相応に認められるので、有用な情報だけは、コンピュータから大麻紙に置き換えて保存しておくのもいいだろう。
 ただし、暫定的な手段と、紙でないと成立しないものを作るために使うのであり、平面情報伝達メディアとしては、基本的に紙は消滅すべきである。

 現在、文章をコンピュータで読む環境は劣悪であるといっても過言ではない。しかし、

「読みにくくても無理矢理コンピュータで読む」

ことが肝心である。
 そうすれば、コンピュータで文章を読むという需要が喚起され、文章を読むためのソフトやハードの開発が進み、しかるのちに

「紙なんかで読むのが面倒」

となるのは必然であろう。要は「やる気」だ。

 まず、コンピュータはページめくりを基本として、スクロールは限定的にしか使わないようにすべきだ。紙文化が何百年もかかって巻き物や紙束から進化して本という形態を獲得したというのに、コンピュータでまた巻き物(スクロール)に戻っては阿呆らし過ぎるというものだ。
 ボイジャー、がんばれ。
 そして、HyperCardはページ(カード)めくりなのが、偉大なところだと以前に書いたが、そろそろHyperCardを超えるソフトがでてこい。発売十年を経過して、いまだに最も先進的なソフトって立場が続いているのはおかしい。
 アドビのPDFもあんまり余計な機能をつけないで頑張れ。PDFデータは印刷することを前提に設計されているものが多いし、PDF自体がそのような要素が大きいので、これも時代に逆行しているものとも言えるが。データをディスプレーで読むことを前提に設計すれば、かなり使えるフォーマットだ。

 コンピュータを怖がって使わない人が、まだまだ相当数(過半数?)いるようだが、コンピュータを怖がる人が私は恐い、彼等は環境の破壊者だ。
 問題は「見えないものは怖い」で述べたことと幹を同じくするものである。

「紙は素材として使え、メディアにするな」


1999-10-27