ゲームってなんだ
ゲームって一体なんだろう、あやふやなのは良くないので一度定義しておこう
ゲームの定義
これからゲームについて語るにあたり、その対象であるゲームを定義しておこう。
ここでは非コンピュータゲームも含めた包括的定義とする。
いきなり個人的な定義を並べる。世の中一般に通用する定義ではない。
- 楽しむものである
- ハッキリとしたルールがある
- 進行に干渉できる
補足
これに「勝敗(目標)がある」が加われば、より強くゲームとしての性質を持つものとする。
勝敗は「プレイヤーの能力判定」と言い換えてもいい。
とは言え、勝敗にゲームであるかどうかを判定するほどの強度はなく、ルールの一種程度と考える。
逆に、これらの原則に外れる程ゲーム的では無くなるものとする。
なお、上に書かれたもの程、重要度は高いと考える。
道具であること
楽しみによる定義では、「楽しむための道具」と「楽しい体験」の分類が存在しそうだ。
極論すればあらゆる状況を楽しめる人もいるかもしれない。
楽しい体験とは受け手によって決定する要素なので深追いせず、道具としてのゲームを追う。
以下、蛇足気味だが、細かい部分を考えてみる。
楽しむものである
楽しいとは何か
正直定義は難しい。楽しいとは辞書的な「快適であり愉快であること」位に思っていただきたい。
人はどんな場合に楽しいと思うのか、それをゲームはどのように利用しているのか、その辺を考え始めると大変な事になるので、個々の「楽しい」は別稿で語っている。
楽しむものである、との定義には生産的なことを(一次の)目的としない、あるいは生産的である必要がない、という意味が含まれている。
楽しむのはだれだ
プレイヤーは楽しくないのだがギャラリーは楽しい、という状況はスポーツ・歌謡・演劇ではわりと発生しがちだ。
このように、プレイヤーが楽しくなくても成立するものはゲームではない。
スポーツの場合は、元来楽しむものであり成立時点ではゲームであったものも少なくないが、いつの間にかゲームでなくなる傾向にある。
ゲームは、プレイヤーが楽しむものである。
楽しみはどこにある
ゲームとして提供された道具を使ってプレイしているのに楽しくない、という状況も往々にして発生する。
体験としてはゲームが成立していないが、道具自体は楽しむために提供されているので、道具の時点ではゲームと言える。
楽しむものとして提供されたのに、楽しくプレイされない「楽しくないゲーム」は存在しうる。
道具を提供する側が「楽しめる筈がない」と思って提供している道具だが、ゲームという名称で提供されているもの。
自己言及的になってしまうが、ゲーム自体に「楽しむもの」という意味が含まれているのなら、ゲームという名称で提供されているのが「間違い」である。
楽しめないと思って提供されているものをゲームと呼んではいけない。この場合はゲームの定義云々よりも「詐欺」と言いたい。
ただ、楽しめないと思って提供されているものを、楽しんじゃう場合もあったりするので侮れない。
ゲームは、楽しむ事を目的として提供される。
ハッキリとしたルールがある
ルールとは何か
ルールとは判定であり、それによって発生する法則である。
世界が物理法則に支配されている限り切り離す事はできないので、ゲームかどうかの判定に物理法則は寄与しない。
ソフトウェアは物理法則から自由であるようにも思えるが、プレイヤー自身やゲーム機が物体である限り、物理法則からは逃れられない。
となると物理法則以外の法則、つまり人為的に定義された法則がルールと言えるだろう。
法律もまたルールではあるが、ほとんど物理法則に近い、人として生きるからには逃れられない存在なので、これもゲームかどうかの判定では考えない。
法則は、禁止事項や、一定の状況によって発生する追加事象、発生した事象の記録などで構成される。
これら法則は、有利不利にかかわらず「何かしてはいけない・できない、あるいはしなければいけない・される」という制限である。
ゲームは、人間が定めた制限を持つ。
ルールはどこにある
遊ぶための道具を遊具と呼ぶ。
遊具そのものはゲームではない。ルールが含まれないことがあるからだ。
遊具はその形や材質などのデザインにルールが含まれている(シグニファイアがある)が、そこに明解さはないのでゲームとは呼ばない。
ルールが記載された説明書、あるいはルールが記録されたソフトウェアまで含むことにより、遊具はゲームと呼べるようになる。
将棋盤はゲームではないが、将棋は道具およびルールが含まれるのでゲームである。遊具とルールが別に提供されたとしても構わない。
ゲーム機はゲームではないが、ゲームソフトをセット(必要ならディスプレイなども)すればゲームと言える。
ゲームは、ルールの記録された道具を含む。
共有されるルール
ルールが複数の人の間で共有できない場合それはゲームではない、という以前にルールではない。
一回限りのルールでも複数のプレイヤーに共有されていたら良い。
1人ゲームが1回プレイされただけではゲームではない、同じルールで別のプレイヤーもプレイできてはじめてゲームと言える。
自分ルールの時点ではまだゲームではなく、明文化され複数人で共有される事によってゲームとなる。
ゲームは、複数のプレイヤーにルールが共有できる。
進行に干渉できる
内容が一定でない
最終的な結果が常に一定であっても良いし、最適化の結果、進行がひとつに収束しても良い。
何度かに一度変化するのでも良い。ただゲームはとにかく内容に変化が現れる。
ゲームは、内容が変化する。
干渉できる
干渉とはプレイヤー操作によって、進行に変化が現れる事。
乱数や日付その他のパタメータなど、その変化がプレイヤーの意思によらないものであっても良い。
選択の重み付けが特になく、どちらを選んだらどのような結果となるか予想できる必要もない。
操作の結果として、変化が現れれば良い。
ゲームは、操作可能なものである。
まとめ
以上をまとめると以下のようになる。
要するに、最初に提示した定義を、多少詳しくしたものだ。
- ゲームは、プレイヤーが楽しむものである。
- ゲームは、楽しむ事を目的として提供される。
- ゲームは、人間が定めた制限を持つ。
- ゲームは、ルールの記録された道具を含む。
- ゲームは、複数のプレイヤーにルールが共有できる。
- ゲームは、内容が変化する。
- ゲームは、操作可能なものである。
その他
ゲームかどうかの定義は明確に判定できる線が存在しているわけではなく、グラデーション状に遍在していて、その強弱があるにすぎないとも言える。
ゲームに必要な要素が互いに干渉し、他の要素を高めるように作られている場合、ゲーム性が高いと言えるだろう。
操作がルールによる制限や増幅を経て、楽しい結果を生み出す。
楽しい結果が新たなルールを想像させ、プレイヤーの操作を促す。
そういう(フィードバック)ループ構造をもつゲームは、面白いゲームと言えるだろう。
そこで結論。
楽しむためのルールを持った道具