『科学的で魂を否定する論調は、しばしば冷たく見られがちだが、本当のところはどうなんだろう』
ドーパミンやらエンドルフィン、アドレナリンなど、あまり化学情報に興味がない人でも、どれか一つぐらい聞いたことのある物質があることと思う。
これらの物質はいわゆる麻薬と類似した構造と効果を持つ体内化学物質で、ドーパミンなどは人を「非常に幸福で満たされた気分」にさせてくれると言う。この状態は、麻薬によってもたらされるそれと類似していることが解るだろう。
恋愛状態には、このドーパミンが分泌される量が多くなるそうだ。
極論するならば「自然とお互いに引かれあって恋に至るのも」「麻薬を打っていい気持ちになってヤッちゃう」のも、その瞬間の身体的状態としてはほとんど違いがないと言える(麻薬の方がより直接的かつ急激に供給されるため、長期的には体に非常に悪い)
また、不幸な幼少を過ごすと、分泌器官が十分に発達せず、幸せを感じにくくなるという報告を読んだ記憶もある。
このようにドーパミンなどは「喜びの物質」といっていい。他にも、いろいろな感情に対応した「緊張の物質」やら、「怒りの物質」とでも言うものが発見されている(ただし、まだハッキリとしたデータが取れているのはあまり多くないようだ)
人が悲しくて涙を流すのは、体内にある「悲しみの物質」を排出し、正常なバランスを取るためだという話もある。
他にも、麻薬を常用していると、同じ役割を持つ化学物質の分泌機構が鈍って、必要なときに物質が分泌されなくなるらしい。
このように近年の研究の成果によって、人の性格やそのときどきの感情というものは、物理的・化学的な原因に基づくものであることが、かなりの信憑性を帯びてきたと言える。
(ちなみに、ABOBAの血液型は性格を司るものとしては忘れた方が良い)
「なんか、そんなのって、ちょっと悲しいよねー」
なんて声が聞こえてきそうだが、感情の価値が落ちたのではなく、物質にそれだけの力があることが分ったにということだ。そういう事実事体が、感情の価値を下げたりはしない。
もし、感情制御物質が量産されて手軽に手に入るようになったりしたら、かなり価値は落ちるかもしれない、しかし「嘘の感情」は、今でも結構お目にかかることができるので、たいした違いはないとも言えるかもしれない。
もう一度いうと、科学的に解明されたということだけで、ものの価値はかわらない。問題はその後だ。
例えば、本を読んで感動したりする。映画を、絵を見て感動したりする。
我々は本が紙とインクであることを知っている、だからといって「紙とインクで感動はできない」などと言ったりはしないだろう。他のものにしても同様である。
事実を知ることは、より純粋に本質に近付くことを意味する。本であれば「紙の精霊」の仕業ではなく、小説家の(また、その他本を作った人々の)力で感動したことが解り、本には正当な評価が与えられる。
昔は、月にはウサギがいたり美女がいたりしたものだが、今どきそんなことを言うとバカにされること必至である。
それを「夢が無くなった」と言う人もいるが、科学的な方法によって、月に行くという「夢が実現した」ということを忘れてはならない。
科学は夢を現実にする力がある。私は他の方法を知らないし、おそらく他に方法はないだろう。
これは「科学は夢を見る者の必要条件」と言い換えてもいいと思っている。
「ただ夢見ても夢は実現しない、夢は科学的方法によって実現されてきた」
1997-11-14 1998-01-29