批判されない作品

『ネットワーク文化華やかなりし昨今、素人も様々なものを公開する機会が増えてきているのだが、どうも公開するときの心構えというものが足りないのではないのだろうか』

 「自分はべつに何も作ってないから関係ない」と思った人もいるかと思うが、そういう人でも掲示板やメーリングリストでの発言をしていたりするだろう。
 発言したということは、モノ(文章)を製作したということだ。結構忘れがちだが、常々喋っている言葉、書いている発言文、それらはクリエイティブな作業である。
 故に批判されなければならない。

 モノを作って称賛だけ得ようとか、批判を受けて「悪口を言われた」と勘違いしたりとか、どうも「貴様はなんのためにモノを作っているのか」とか、「向上心というやつがひとかけらでもあるのか」と私ならずとも叫びたくなることがあるかとおもう(叫びゃしないか?)

 「公開しておいて、批判を受けたくない」なんていうのは、ちゃんちゃらおかしい。
 同様に、公開されている作品に対して「批判するのは作者が傷つくからかわいそうだ」などというのも、とんだ心得違いといっていい。

 批評したりされたりすることで傷ついたり傷つけたりするのは「当たり前」で、批判とは「あえて人を傷つける」ことに意味があるのだ。
 人の心に届かない上辺だけの言葉に、どれほどの意味があるのか。

 とはいえ、そもそも批判を受けるたびに傷つく必要はない、どんなに素晴らしいものを作っても、必ず批判は出てくる。いちいち相手の言うことが正しいなどと思ってやる必要はない。結局自分が正しいと思うことを正しいと思うしかないのだ。
 勿論相手が正しくない可能性があるのと同じくらい、自分が正しくない可能性があるということも考慮に入れておかねばならないのは言うまでもない。

ズバァ

 公開するということは「批判を甘んじて受ける」と言う気持ちが無くてはやってはいけない行為で、そこにプロとアマチュアの差はない。
 プロとアマチュアの差は、クライアントが存在するかしないかの差だ、けして作品のもつ本質的な立場の差にはならない。
 なぜなら、作品を受ける立場にとっては、両者の差は存在しないからだ。

 恐らく同様の、批判を受けたくないという理由からだろうが、ソースリストを公開したがらないプログラマが多いのも気にかかる。
 HyperCardなんかにも必要もないのにプロテクトのかかっている作品が多い。
 隠したところで、プログラムの動作を見れば「いかに仕様のないプログラミングをしているか」というのは一目瞭然である。
 だったら中身を公開して、よりよくする工夫を聞かせてもらったほうが、どれだけ役に立つか判らない。

 クリエーターにとって自分の作品の悪いところを指摘してくれる人物というのは、よい部分を指摘してくれる人物と同じかそれ以上にありがたい存在であるはずだ。
 なぜならば、その指摘が相手を傷つける可能性があることを知って、あえて悪いところを指摘する場合、指摘する人物自身も己が身を切っているからだ。
 無難に済ませたいならば、悪いところを指摘するよりも、無視するほうがいい。それをあえて指摘するということは、非常にありがたい存在と言える。
 批判を受けたら、その人物とは親しくなるべきだ、そうすることによって、作品の質は向上する。

 そういうわけで批判されるということは非常にありがたいことで、作品を公開しておいて、批判はいやだという人が「何故公開したか」その理由はよく判らない。

「批判は悪いことではない、悪いのは根拠のない中傷であり、論点のずれた批評である」


1997-09-26 1998-01-29