多機能・高機能神話

『パソコンは勿論、様々なもので多機能・高機能が叫ばれるが、冷静に多機能・高機能がいいものかと考えると、実際はそうでもない』

 多機能化は、使用者の習熟期間を増大させ、目的を不明確にし、製造コストを増大させ、複雑化により製品は脆くなり、メンテナンスをやりにくくする。
 高機能化は、同一のテクノロジーレベルで作られた製品は、全てを高機能化することはできないので、コスト・スペース・その他諸々の「高機能化のために必要な余計なもの」が付いてくる。
 はっきり言って、ろくなことはない。シンプルイズベストとはよく言ったものだ。

 それでも多機能・高機能が声高に叫ばれるのは、見えないものは怖いの論旨で行けば、消費者が明確で適切な価値判断基準(知識)を持たないゆえに、従来の価値判断基準(数量)に換算してしまうから、といえる。

 曰、国内外8000本のソフトウェアを収録(編集するのが面倒だっただけだろう)
 曰、180もの豊富な編集機能を搭載(そのうちいくつが使える機能なんだ)
 曰、CD-ROM5枚組で、感動のスペクタクルをお届けする(データを短くまとめきれなかった言い訳か?)
 曰、フルカラームービーの映像が貴方のハートを直撃する(フルカラームービーが表示されるのに5分も待たされれば、どんな人にも直撃しない)
etc.etc.

 恐らく「知っているが、躍らされてしまう」という人もいることだろう、スペックフェチ、ハイスペックジャンキーとでもいう症状だ。
 その手の人に言う言葉は一つしかない「解っているなら踊るな」である。意外に簡単に踊るのを止めることができるだろう。
 好きで踊っている人には何も言わない。好きなだけ踊って欲しい。私も時々やる(笑)

それは腕時計じゃない!

 例えば、パソコンで動画が動いても、全然たいしたことではないのだ(テレビを見たことがないのか?)コンピュータ上で動くからには、インタラクティブ性を強く持っていないと、テレビやビデオに対する優位性(アドバンテージ)がないからだ。
 従来のメディアで可能だったことがパソコンの上で展開されることにさほどの意味はない、問題は「その後」なのだ。

 パソコンにテレビを求めてしまうのは、消費者の多くは(潜在的な者も、既に所有している者も)「パソコンが何だか解っていない」からだ。
 パソコン(コンピュータ)は登場したときからすごいものだった、何がすごいかというと、他の道具や方法に置き換えることができない能力を持っている、所がすごい。
 言い換えれば、他の道具や方法で置き換えることができる部分は、たいしたところではない。
 一例を挙げるなら、電子メールは簡単に速く「文字を送れる」のが凄いのではない、文字を送るのに紙という「物質を消費しない」事が凄いのだ。

 パソコンは、なにもここ何年かで凄くなったのではない、ここ何年かはパソコンにできることが、視覚に訴えるようになってきたに過ぎない。
 そして忘れがちになるが、重要なことは「視覚に訴えることはパソコンの重要な機能ではない」ということだ。
 そして、パソコンが何か知らない人は実にちんぷんかんぷんな機能をパソコンに求め、そして失望する。

 そこで結論。

「容量のでかいソフトは、悪いソフトと断定して八割がた正解」


1997-09-04 1998-01-29