ゲームオーバーはなぜ必要か

ゲームオーバーがなけりゃ、どんどん進んで、快適にゲームできるじゃーん

しかしこの後、モニカの当番は2巡に1回に減ったという…
失敗を知らぬものは成功をも知らぬのだ

ゲームオーバーの定義

 まず最初に、本稿に於けるゲームオーバーを定義しておこう。
 目的の達成(クリア)によって起きるゲームの終了は含まない。
 本稿では、失敗によっても起きるゲームの終了のみを、ゲームオーバーとして扱う。

面白くするためには、辛くしなきゃいけない

 ゲーム以外でも「喜びは落差」でしか手に入らない。基本的に、人間は幸福を相対的な感覚差でしか理解できない。
 ゲームの場合は主に「失敗と達成」の落差によって喜びが生まれる構造を採用している。
 つまり「ひたすら辛さを避ける」ということは「ひたすら喜びを避けている」のと実のところイコールなのである。

 このあたりは以前書いた勝つと嬉しい誰でもクリアできるゲームに通じるものがある。
 つまり、「一度は負けないと勝っても嬉しくない」のは「ゲームオーバーを体験しないとクリアに喜びが無い」のとほぼ同じ理屈だ。
 高く跳ぶにはしゃがまなきゃいけない。

アメと鞭

 以前成功したら誉めてくれで述べた通り、ゲームは褒める装置である。
 褒める仕組みのひとつとしてのスコアを取り上げたスコアスコアスコアも参照してほしい。
 そしてゲームは褒める装置であると同時に叱る装置でもある。プレイヤーが間違った行動をした場合にはゲームオーバーという「お叱り」が待っている。
 この「アメと鞭」のバランス無しにはゲームは成立しない。「リスクとリターン」という言葉でもほぼ置き換えできる。
 先程述べたように喜びは辛さとの落差によって発生するため、ゲームオーバーが辛くないゲームは結局喜び(達成感)も薄く印象に残らない。

 データイースト慟哭そして…の場合は、プレイヤーキャラクタだけでなく登場キャラクタの死によって、より「失敗の辛さ」を高めることに成功している。
 おかげで、本当に生きていられるとホッとするし必死になる。
 シミュレーションゲームで、このパターンは多く、任天堂ファイアーエムブレムが代表的なものと言える。
 ここで重要なのは「プレイヤーの選択次第では助けられる」ということだ。つまり成功と対になっている。
 ただキャラクタではなく資源に近くなると(死ではなく消滅に近づくと)辛さが発生しなくなる。このへんは別稿で述べたい。

 失敗の辛さを作る事は大事なことだが、気をつけないと「鞭だけのゲーム」になってしまう。
 実際辛いだけで喜びが無い、もしくは喜びが極めて薄いか分かりにくいゲームというのは、案外多い。
 そんなのは現実世界にゴロゴロしているから、ゲームは現実世界よりも甘くしないと成立しない。
 現実よりは甘くないと、あえてゲームをする必要がなくなってしまう。

 ゲームには「チクショー!!とヤッタ!!」の二つの感情が必要で、片方しかないと、それは結局感情がなくなってしまう。
 「小さいチクショーと大きいチクショー!!」や「小さいヤッタと大きいヤッタ!!」ではダメなのだ。
 白い紙に黒い線を描くから見えるのであって、白い紙に白い線を太く細く書いてもダメなのだ。

インタラクションであるが故に

 小説や漫画・映画のように、ピンチや悲劇を作って緩急を付ければいいのではないか。
 そういう意見もあるだろうが、ゲームはプレイヤーが制御権を持っているのが決定的に異なる。

 ゲームのプレイヤーは、自分が起こしたアクションとその結果であるリアクションを楽しんでいる。
 故に自分が制御していない部分で起きた事象に、プレイヤーは無関心になる傾向がある。
 ドラマ(エアリスやキーファがいなくなる事)よりも、その後のプレイ(そいつらの装備や経験値がどうなるか)の方が気になるのだ。

 インタラクティブなメディアであるゲームで、プレイヤーの操作起点でないドラマの効果はかなり低い。
 ゲームならではのドラマをどう構築しているか、あるいはすべきかというのは映画的ゲームの存在理由ムービーの役割とはゲームにおけるストーリー、あるいは喋らない主人公喋る主人公あたりでも語ったが、今度も掘り下げて語りたいと思っている。

ゆるいゲームオーバー

 失敗した訳ではないが謎が解けない等で進まなくなる状態を、詰まりと言う。
 先ほどの紙と線の例でいけば灰色の状態。これがあれば線が見え、ゲームとして成立する。
 ただしゲームオーバーとくらべると、失敗ではないので分かりやすさとしてのメリハリがなくなるのは確か。
 とは言え超えるべき壁が非常に高く、ゲームオーバー以上の成功との落差を作る「詰まり」もあるので、達成感という意味では決してゲームオーバーに劣るものではない。

 またゲームオーバーそのものも辛さの強弱がある。
 これによってゲームオーバーがあるにもかかわらず、なんだか達成感に乏しく印象の薄いゲームもできあがる。
 さらに、クリアもゲームオーバーもないゲームというものもある。
 他にも、ゲームオーバー以外での辛さの発生方法(本稿では「仲間の死」と「詰まり」を取り上げている)も存在するので、それらを利用してゲームを成立させる事もできる。
 それから、ゲームオーバーという括りで無く、「死」という括りで考えると、まただいぶ異なった議論となる。
 このあたりについては、また別稿で述べたい。

 そこで結論。

ゲームは楽しむもの、だから辛さが必要

落差が必要なのはエンターテイメント全般にいえる事ではあるんですが、ゲームの場合はプレイヤーの失敗の結果としてのゲームオーバーの効果が高いのです。