ゲームと賞

ゲーム賞ってあるらしいけど、意味あるの?

ゲーム屋に女子中学生がたむろしているのを見たことはない
あの攻略本のキャッチコピーって逆効果な気がします

賞に応募してはみたものの

 2006年「OCNゲーム×なつゲー Flashゲームコンテスト(以下OCN賞)」に脱出王を応募して再認識したんだが、ゲーム業界でまともに機能している賞はほとんどない、と断定して良さそうだ。
 今回は、その辺の疑問から、今後の展望までざっくり語ってみよう。
 ちなみに本稿、脱出王が選外に終わった腹いせに書いているのではなく、基本的に「グランプリを取った後に発表したらカッコいいな!」と思って事前に書いておいたものだ。

 ゲーム会社が大きな人員と予算をつぎ込んで作っている「大型ゲーム」と、個人や少人数で作られる「小型ゲーム」で、だいぶ意味が違うが、重なる部分もある。

名誉としての賞

 基本的には、賞の一番の価値はここにある。
 権威がないと賞としての価値はない、と言っても過言ではない。
 権威があることにより、この後考察する様々なメリットも発生してくると言える。
 ちなみに、十分な賞金の額があれば応募する側としては価値があるが、それは賞自体の価値ではなくて賞金の価値でしかないので注意。

 どうやって権威を持たせるかは、主に二つのパターンがある。
 まず、権威のある人物や団体の名前を冠すること。この方法だと創設時点である程度の権威を確保できる。
 次に、確かな選択が継続的に行なわれること。名前を冠する方法も、この第二の方法を行なっていかないと権威が失墜する。

 さて、ゲームはどうか。
 現在誰もが納得する権威のある人物は、おそらく「宮本茂」を置いて他にないと思うが、ゲーム制作者の場合、会社組織と独立しては存在していないと言え、残念ながら公正な選択がされるとは思えない(もし公平な審査がされていたとしても、そう思えないのだ)
 実際、ファミコン時代のジャンプの連載コーナーであるファミコン神拳では集英社やレビュアーに関連するタイトルの評価が高く、対立するタイトルの評価が低く出る傾向はあった。
 ちなみに、ファミコン神拳でレビュアーを勤めていた、堀井雄二(ゆう帝)や宮岡寛(ミヤ王)の評価は、他の多くのレビュアーに比べると方向性が分かりやすく評価の幅もあり、結構信頼できてはいた。
 つまり、ジャンプ以外の各出版社のゲーム誌でも同様(か以上)の利害関係による揺らぎが大きく、信頼性に欠く状況なのが現状である。

 そして、あちこちのゲーム賞は、どうにも納得いかない選択を続けている。
 明らかに駄目なタイトルが選ばれているというわけではないが、受賞タイトルをざっと眺めても「どういうゲームに賞をやろうとしているのかが分からない」というのが問題だ。
 これでは信頼感は生まれず権威ともならない。方向性という意味では、単純に「その年一番売れたゲーム」にやった方がずっといい。
 継続していけば、そのうち方向性が生まれるかもしれないが、とりあえず今はコンピュータゲームに権威ある賞はないといって良いだろう。
 ちなみに、OCN賞は一回きりで終わっている。

 そしてもうひとつの権威としてレビュアーの存在がある。制作者側の権威が使えなくても、作品を選択する目が確かな人間がいれば権威として成立する。
 しかし、残念なことにレビューを沢山したからといって、権威と言えるほどの信頼を獲得したレビュアーはおらず、この面からの権威付けも難しい。
 わりと信頼できる(方向性の分かりやすい)レビュアーは、桜井政博を筆頭として色々浮かぶが、ほとんど間違いなく制作者とかぶってるので、これも駄目。
 と思っていたら、2010年からゲームデザイナーズ大賞の審査委員長を桜井政博が勤める運びとなった。
 前述の利害関係によるブレの心配は依然あるものの、別の評価軸ができたことは、めでたい。

登竜門としての賞

 賞のひとつの形態として重要なものに、未発表作品に送られる賞というものがある。
 大抵は出版社の主催する賞で、受賞者にはその出版社の雑誌でのデビューがついてくるのがパターンだ。
 受賞という実績があれば、その後、非常に売りやすくなる。
 これは新人発掘の仕組みとして、出版社、作者(の卵)の双方にメリットがある。

 対してゲームはどうだろう。
 所謂フリーソフトやWebゲーム(小型ゲーム)に対する賞(OCN賞はこれ)は、もうひとつ役割がはっきりしない。
 OCN賞は、その後同社のゲームポータルでの公開が予定されていて、このあたりがちょっと新しいが、編集者もいなさそうだし報酬も曖昧で、やる気に疑問を感じる。

 まず根本的な問題として、個人やチームによる、小説・漫画規模のゲーム制作は職種として成立していない。
 ゲーム雑誌といっても、ゲームが載ってる雑誌ではなく、ゲーム情報誌である。
 一部、ゲームデータが収録されている雑誌もあるが、ゲーム作家が職業として成り立ってはいない。
 だからもう、職業として成立できる環境をまず作らないと賞どころではない、というのが現在の悲しむべき現実だ。

 以前エニックスがやっていたコンテストで、堀井雄二、中村光一という英才を掘り出したのに比べ、現状は登竜門としての意味はむしろ薄れている。
 各ゲーム会社が散発的にコンテストを開いているが、最近とんと、コンテスト出身のゲームデザイナー、プログラマ、は聞かない。

 グランプリ賞金1000万円という破格の賞金をつけていたアスキーのコンテストも、最近は行なわれていない。
 一応、細々とコンテストパークが続けていたが、2008年に終了した。

 CESAのインディーズ部門に至っては、応募方法は郵送な上にVHSテープにプレイ画像を録画って、「私はゲームがなにか知りません」って宣言してるようなもんだ。馬鹿丸出し。
 なんでゲーム作品を投稿するために、VHS録画用装置一式揃えなきゃなんないんだ。このお役所的思考、呆れる以外ない。
 指定のプラットフォームでプレイできない、あるいはしばらくプレイしても面白くない、ならもうそのゲームに賞をやらなくていい。プレイムービーなんか見てもしょうがない。
 他の要項も制作者を馬鹿にしてる。ゲーム賞に限らずレーティング問題などCESAには言いたいことが多いが、「こんな馬鹿は放っておくのが一番」と思わんでもない。
 年現在は、多少要項は改善された。

 またゲームの特殊な状況として、流通させるために出版社を通す必要がないという面がある。
 だから、多くの人にプレイしてもらいたい、という作家の根源的な欲求は、もう満たされているので、出版のための手段としての賞の魅力がない。
 これはいまや、小説でも漫画でもネットワーク上に載せれば、同じことではあるが、まだ圧倒的な印刷メディアの優位があり、しばらくは揺るぎそうにない。
 とか言っているうちに年現在、小説家になろうを筆頭に、印刷メディアとWebの優位性がひっくり返りそうな状況が到来している。

 Web上での宣伝目的も多少あるが、うちのサイトとコンテストサイトのページビューって、そんなに差がある気もしない。
 どっかのページビューの多いニュースサイトなりで取り上げられた方が宣伝効果は高い(コンテストの二次的効果として、期待できなくはない)
 だいたい、2chで祭りになってくれた方が、なんぼ効果があるか(年現在ならTwitterで炎上か)
 そんなわけで、宣伝効果としてもさほど期待できそうにない。そもそも権威がないのだから、宣伝効果も付いてこないのは道理だ。

 そんなわけで、プロ作家としてデビューする場所自体がなく、流通には既に乗っている状態で、賞金もたいしたことがないゲーム賞に誰が応募するのだろうか。
 まぁ私は応募したんだが、小遣い貰えりゃいいな程度の気持ちで。つまり、それ以上の動機は極めて持ちづらいということだ。

 ライトノベルと言われる小説ジャンルは、結構ゲームと近しい関係にあるので、このあたりの賞が拡張されてゲーム作家の登竜門として機能しはじめるかもしれない。
 ただ、ビジュアルノベル偏重になることは容易に予想できるが。

業界振興のための賞

 業界振興と言っても、いろいろとパターンはあるわけで、グッドデザイン賞なんかは、国内の製品のパクリデザインを減らし国際競争力を付けようという、通産省の肝いりで始まったものだ。
 ただ、いまは既に当初の目的は達して「なんだかよく分からん賞」になってる気もする。
 もちろん、グッドデザイン受賞は販売促進につながり、結果として経済振興につながってる面もあるが、いまはちょっと過渡期というところ。
 …ってグッドデザイン賞について語りたいんじゃなかった。

 文学賞は、膨大な作品の中から、どの作家を読むかの指標として、かなり大きな役割を持っている。
 文学賞はジャンルによって細かく賞があるので、例えば「純文学(の新人)を読みたいなら芥川賞」「SFを読みたいなら星雲賞」「時代小説なら吉川英治文学賞」の作品から読むという位のすみ分けもあって、趣味+受賞作品で選択できるほどの柔軟さを持っている。
 近年は、本屋の店員が薦める本、が売れたりもしているが、重要な作品選択の基準のひとつとして、まだまだ賞は揺るぎないものと言っていいだろう。

 さて、ゲームはと言うと。
 市販作品(大型ゲーム)に対するゲーム賞は、もう受賞した時には旬を過ぎてるんで、ゲーム賞を受賞したからといって売り上げが伸びるってことはまずない。
 ある意味、ファミ通のクロスレビューに代表される雑誌の評価が、賞の役割を果たしていたわけだが、いまやかなりその神通力も落ちている。
 ユーザーが、クロスレビューを信用できないということを学習してしまった。

 CESAなんかは、発売前のゲームに賞を与えるという、なんだか変な対策をしているが「そんなん、もっとプレイヤーが信用しないだろ」この馬鹿。
 なんでそんな権威を失墜させる行為をするのか…もともと無いから失墜はしないか。

 これらを払拭する対策の一つとして、CESAのゲーム大賞では2010年からゲームデザイナーズ大賞という部門が設けられている。
 まだ権威ある賞として確立していないし、それ故に受賞が売り上げに繋がったりもしていないが、今までのゲーム大賞よりは意味のある賞となりそうな雰囲気はある。

 メーカーはもちろん流通・小売りも含めた、業界全体が発売時期から過ぎたゲームも売っていこう、プレイヤーも前のゲームを遊ぼう、という姿勢を持たないと、ゲームと賞の循環がおきない。
 そうなるためには、いまのゲームの価格設定は明らかに高すぎるし、1作に詰め込まれる量も多すぎる。このへん早く終われ!ってエッセイで語ったので参考にして欲しい。
 2005年ごろから、任天堂が脳トレなどのロングセラーと言えるソフトを幾つも発表しているので、現在の業界の「出荷初週売り切り」構造を変えるチャンスが到来した。
 ただ、ファミコンミニで空前の売り上げを記録し、Wiiで大々的に以前のソフト資産を生かそうとしている任天堂以外は、「半年前のゲームの安売りをして体力落としてるだけ」な気がする。
 残念ながら2013年現在でも、コンシューマゲームは初週売り切り体質から抜け出せていないのが現状である。

 オンラインゲーム(ソーシャルゲーム)は、時間をかけた売り方ができるようになっていて、2013年のゲーム大賞はパズル&ドラゴンズが受賞しており、相変わらずの後追い受賞の感はあるが、受賞が売り上げに繋がる良循環が今後できる可能性は出てきたようにも思う。
 ただし、何度も繰り返すが、現状はゲーム賞が売り上げを左右するほどは機能していない。

 そして、ゲームそのものがジャンル分けがしっかりできるほど成熟していないこともあり、ジャンル毎の賞どころではない。
 先ほど紹介した「星雲賞」はゲームも受賞する(SCEI/アルファシステム高機動幻想ガンパレード・マーチ)ので、文学賞のオマケ的な位置からジャンル分けがされていくのも、ひとつのパターンとして定着するのではないかと思う。
 SFの後は、推理ゲームが「日本推理作家協会賞」や「江戸川乱歩賞」を受賞するとか、そのあたりで広まっていくんではないかと期待したい。
 が年現在、そんな話はない…と思う。

これからあるべきゲーム賞とは

 大型ゲームの賞は、旧作も売っていく構造を作り出すのが先。
 小型ゲームの賞は、「ゲーム作家」という職業をとにかく成立させるのが先。

 小型ゲームはインターネットで流通してるんだから、まず「応募させる」なんて形態を取っていたのでは話にならん。
 文学賞のように勝手に探して勝手に審査して、勝手に賞をあげるようにしてしかるべき。それだけの情報や手段は提供されているんだから。
 コンピュータゲームの場合は、応募などさせずに、いきなり人気投票サイトを作るのがコンピュータ(Web)的だろう。

 また賞とは文化を育む機能を持っている。その面からコンピュータゲームだけでなく、非コンピュータゲーム、そして新スポーツも含めた、広い意味でのゲームを捉える必要もあるだろう。
 ドイツは多くの非コンピュータゲームが作られまた売られており、権威のある賞(ドイツ年間ゲーム大賞(Spiel des Jahres)ドイツゲーム大賞(Deutscher Spielepreis))も存在し、受賞がゲームの売り上げにもつながり、ちゃんと賞として機能している。
 しかし、日本では非コンピュータゲームの権威ある賞はない(賞自体はある)。なんとも薄ら寒い状況だ。

 ゲーム以外の様々な賞では、ただ話題作りに賞をやって、その後ほったらかしなものも多い。
 受賞者の知名度を利用して、賞に権威付けをしようという本末転倒なものすら珍しくない。
 ゲーム賞では、そんなものがはびこらないようにして欲しいものだ。

 ゲームの場合はプレイ時間が長かったり、プレイヤーによって最後までいけたりいけなかったりするので、審査が難しいという問題もある。
 これは、ゲームのレーティングの問題ともかかわることなので、また別稿で語りたい。

 そこで結論。

今はゲーム賞に意味なしだが、賞が意味を持つとゲームが変わった証拠

追記

 近年、各種GOTY(Game of the year)の存在感が高まっている。
 GOTYは色々な雑誌やサイトが団体(CESAやIGNなど)が発表しているが、単にGOTYと言った時には、年から始まった The Game Awards のGOTYを指すと言って良いだろう。
 一年の振り返りとして話のネタになる程度ではあるが、風向きが変わっているのを感じる。

 The Game Awards は Spike Video Game Awards(VGA) を前身とする賞で、マイクロソフト、ソニー、任天堂といった主要プラットフォーマをはじめとする多くのゲーム会社が運営に参画し、多くの専門家が選出に参加する、ゲームのアカデミー賞たるべく作られた賞だ。
 一般の認知度は「だれも知らない」と断じて良いレベルだが、「今のところ」と但し書きをつけてもいいと思える充実度と信頼感が出てきているのも確か。
 またダウンロード販売が定着したこともあり、受賞したゲームのセールを数週間行う施策や、GOTYを冠したバージョンアップ版の販売も定番化しつつある。

 スマートフォンアプリのストアにより、従来の市販ゲームとインディーゲームが特に分け隔てなく並ぶ状況が一般化した。
 さらに、Steamがパソコン用ゲーム配信プラットフォームとして成熟し、同様の状況ができている。
 開発者の登竜門としての賞は、The Game Awards の Best Debut Indie Game が担っているような感じだ。

 ただ「インディーゲーム デビュー = 新人」かというと、そういうわけでもないので、さらにその前の賞と、賞が成立するゲーム開発環境の必要性は感じる。
 なお、各種開発環境ごとには賞が散発的に発表されているが、開発環境自体の寿命が長くないこともあって、イマイチ継続性に欠ける。
 この辺は、いまだにコンピュータゲームというジャンル自体が過渡期であること証左でもあるので、ある意味では喜ぶべきことかもしれない。

ゲーム賞が意味を持ってきたぞ!