コマンド選択への道標

なぜ、あれほど急激なコマンド入力から選択への移行が起きたのか

作家にとっては、エンタテインメント体験自体が仕事という話もある
一見仕事してるみたいに見えるのが、インタラクティブフィクションのいい所ですね

いくら何でも急すぎないか?

 さて今回は、日本でコマンド(CUI)入力からコマンド選択へ、何故あれほど急激に移行が起こったのかを、CUIコマンド短縮入力以外からも考察する。
 まず、何故テキストアドベンチャーが定着しなかったのかを考え、さらにコマンド選択へ移行した理由を考える。

最初から絵がついていた

 米国のアドベンチャーゲームが、テキストのみの状態から始まったのに比べ、事実上、日本のアドベンチャーゲームはグラフィック付きで始まった。
 ゲームセンターアクションをプレイすることがコンピュータゲームをする事だと思っていた日本人にとって、アドベンチャーゲームは「反射神経がいらない」という点だけで十分に衝撃であった。
 特にプレイヤーは、そこから「文字だけでゲームができる」という発想までジャンプしなかったという事もあるし、制作者側も絵がないと売りにくい、という事もあっただろう。
 つまり日本では、消費側からも供給側からも、テキストゲームが求められる事はなかったという事である。少数の例外はあるにしろ。

分厚すぎる英語の壁

 名作であっても英語が分からないと、ちっともプレイできないテキストゲームは好事家でもプレイを嫌うものであった。
 対して、英語が分からなくてもなんとかプレイできるRPGは好事家たちにプレイされ、その後の日本のゲームに強いインパクトを与える事になる。

タイプライター文化

 欧米ではコンピュータ時代の前からタイプライター文化があり、キーボード入力への抵抗が低かったという面も大きい。
 対して、日本の1980年代はまだ漢字変換ソフトもワープロ専用機も出始めで、まだまだキーボードで文章を入力するということは一般的ではなかった。

 また叩いたキーがそのまま文章となる欧米と異なり、ローマ字入力か仮名入力か、表示が平仮名か片仮名か、あるいは漢字変換での入力を認めるかどうかという点で、ゲームシステムに揺らぎが出てしまったのも定着の障害となった。
 とは言え、ほぼ漢字変換システムがパソコンに定着する前に、日本でのコマンド入力タイプのゲームは滅びてしまった。
 だから入力や表示にバラツキがあったという部分は、さほど大きな原因ではなかったろう。

 ちなみに、最初期は日本のゲームもコマンドは英語入力だったが、仮名入力・片仮名表示、を経てローマ字入力や平仮名表示、漢字変換と実装されていった。
 日本でコマンド入力アドベンチャーゲームが流行したのは、仮名入力・片仮名表示時代だったので、この頃のパソコンゲームにハマった人の多くは、今でも仮名入力で文章を入力しているのではないかと思う。
 かくいう私もアドベンチャーゲームでタイプを覚えたので、かなり長い間JIS仮名入力だった。今は親指シフトだ。

空白区切りでない日本語

 日本語は単語を空白で区切らないので、アルファベット圏の言語に比べコンピュータでの解析がしづらい。
 これは単に、コマンド入力の場合は単語を空白で区切ればいいというだけの話で、大抵のゲームはそうやって対応していた。

 しかし自然な日本語での入力をしたいというプレイヤーの欲求、あるいは開発者側のチャレンジ欲もあって「てにをは」を含んだ入力を受け付けるゲームも多少はあった。
 これも前述の入力方式のバラツキを、さらに混沌とさせていたという面がある。
 これではゲーム毎に入力を再学習する必要があり、コマンド入力の定着には逆風となったのは間違いない。

日本人は2D絵に適性があった

 それに極めて重要な事として、日本人が低い解像度に線と少ない色で描く絵が、米国と比べると格段に上手かった事が上げられる。
 実際に、そのころ日本に移植された多くのゲームは、アドベンチャーゲームに限らず格段に画像が良くなっている。
 グラフィックを日本人が担当したからでもあるし、あの絵では買ってくれない、と判断されたからでもある。
 端的に言えば、漫画とアニメ文化という基礎体力が、プレイヤー側も制作者側も比較にならない程高かったのだ。

 これは単純に米国人は絵が下手というわけではないのは、現在のゲームを見ればよく分かるかと思う。
 ライン+ペイントやドット絵のような省略された絵に対する適性の高い日本人に比べ、立体把握力がありリアリスティックな絵が得意な米国人が力を発揮するには、プリレンダであってもポリゴンが使えるまで待たなければいけなかった。

 そして日本ゲームのアニメ絵の路線はエニックスザースが加速し、スクウェアウィル デス・トラップⅡで決定的になる。

単語探しが悪者になる

 当初ストーリーらしいストーリーも無かったアドベンチャーゲームであるが、文章を読ませることを中心にしたシステムである事もあり、自然と物語を獲得していく。
 その上に絵的に発達した日本のゲームは、先の話を知りたい読みたい、そして次の絵を見たいという欲求が強くなりやすい。
 でも単語(コマンド)が分からなくて進めない、という高いストレスが発生する。

 当初はゲームの中心であり楽しみであった「単語探し」という行為が、探索を中心したゲームから物語を中心としたゲームへと変化するにつれて、物語の進行を阻害する邪魔者となっていったのである。
 これは、クリアできなくても当然であったゲームから、クリアできて当然なゲームへの転換が始まったと言い換えることもできる。

 また推理ゲームとしても、トリックは分かったのに単語が分からないために事件が解決できない、という状況も生んだ。
 推理ゲームでいちばん難しいのは、単語探しという状態に陥ってしまったのだ。
 ゲームで楽しませたい推理という部分と、コマンド入力システムとの噛み合わせの悪さが出てきたのである。

単語探しを止めようか

 そこで、単語探しを避けるためマニュアルに使える全動詞の一覧が印刷されるゲームも出てきた。

 入力の煩雑さを回避するために、カーソルキーやテンキーで移動できるシステムや、コマンドをファンクションキーに登録するシステムも発達する。
 こうなるとコマンドをほとんど入力する事なくゲームが進行する状況が発生する。
 これが極めて快適であることが、プレイヤーにも制作者にも認識されることとなる。
 このあたりは、CUIコマンド短縮入力で詳しく書いたので、そちらも参照されたい。

 そして追い討ちをかけるのがRPGというジャンルの隆盛である。
 同じく物語性の高いジャンルだが移動して戦闘しているだけでも面白く、そこに単語探しはない。

ドラクエの決断

 アドベンチャーゲームでコマンド選択を採用した堀井雄二はエニックスドラゴンクエストで、積極的なコマンドの削減にかかる。

 道具をどのように役立てるかは、銃なら「ウツ」、水筒なら「ノム」、マッチなら「スル」、道具があればある程、動詞も増えることになる。
 しかし、「ツカウ」は万能である。「道具を役立てる事」=「ツカウ」なのであるから、全ての道具に使用可能な動詞となる。
 ひとつの道具をいく通りもの使い方で使えることが、様々な動詞がある事の利点だが、「ツカウ」だと動詞のひとつが自動的に選択されることとなる。
 つまり、プレイヤーの能動性がかなり落ちる事になるのだ。
 言い換えれば、プレイヤーが道具をどう使うか分かってなくても「ツカウ」さえ入力すれば万事オッケーとなる。
 でも日本人はそれを許容した。そうでないゲームを知らなかったという事もあるし、日本が「適当に解釈して上手くやっといてくれる」事を悪しとしない文化圏だったこともあるかもしれない。

 このようにして、ドラクエでは「つかう」に「おく」「のむ」「ほうりなげる」「はめる」その他諸々の役割をも統合してしまう。
 同様に、武器を「もつ」のも、鎧を「きる」のも「そうび」というコマンドに統合する。

 当初は「とる」「かいだん」などがあった「ドラゴンクエスト」だが、シリーズが進むと「とる」は「しらべる」に統合される。
 もう調べるって事は「あける」ひいては「とる」って事と解釈し「しらべるさえあれば、他はいらない」という割り切りようである。
 更に、階段の場所まで行ったって事は、もう登るか降りるかする訳でしょと有無も言わさず実行。
 あまつさえカギを持っていれば「つかう」や「とびら」コマンドを選択する事なく勝手に開く、という所まで「良きに計らって」くれちゃうようになる。
 シリーズが進むと「はなす」と「しらべる」コマンドまでも「べんり(アクション)」ボタンに統合される。
 恐ろしい割り切りっぷりと言えよう。

 この結果として、アクションゲームからRPGに進んできた任天堂ゼルダの伝説 トワイライトプリンセスと、アドベンチャーゲームからRPGに進んできたドラゴンクエストⅧが到達した地点は、面白い事に極めて近い場所となった。
 その後、グラフィックやシステムは両シリーズとも違う方向へ進んでいるが、ここで書いたような「コマンドをシステム側で解釈しようという方向性」はでも続いている。

 確かに楽かもしれないが「何でも勝手にやっちゃうから、自分がプレイしている気がしない」と、このあたりを嫌うプレイヤーもいなくはない。
 しかし大多数はコマンドは少なけりゃ少ない程良い、自分でやることも少なけりゃ少ない程いいという価値観なのも確かなようである。

コマンド選択のその先は

 日本に於けるコマンド(CUI)入力の滅亡を決定的にしたのはドラゴンクエストだという説は、概ね支持されるものだと思う。

 それでも、コマンド選択アドベンチャーゲームは動詞の選択+名詞の選択というパターンを踏襲していた。
 ところがチュンソフトのサウンドノベル弟切草が転換点となり、動詞+名詞という選択肢が多段になっているタイプから、文章による選択肢を中心にしたアドベンチャーゲームが成立する。
 サウンドノベルより先に、スクウェア等のRPGで文章(台詞)の選択によりストーリーを分岐させるシステムが採用されていた事もある。これはドラゴンクエストの「はい/いいえ」による選択よりも、素直なシステムとも言える。
 勿論、この時にゲームブックという「数種の選択肢から選んでページを移動する、印刷物による非コンピュータゲームの存在」はコンピュータRPGよりもずっと強く影響したであろう。

 更に進んで、1996を嚆矢とするビジュアルノベルになると、どんどん選択肢が意味をなくしてくる。
 私はゲームってなんだでゲームの要件の一つとして「進行に干渉できる」ことを上げている。
 だから個人的な判断基準からすると、選択肢のないビジュアルノベルはゲームではないと断定する。
 総プレイ時間が何の疑いもなく書かれるようなビジュアルノベルは、その是非はともかく、もはや漫画や音楽、映画などと同様の「ゲームの周辺メディア」となったのだ。

コマンド(CUI)入力の復権はあるか

 コンピュータによる文字入力が一般化して、敷居はかなり下がった。
 読書を趣味とする層がそれなりに存在するから、CUI入力がもっと広まる可能性はある。
 また、受け付ける語彙数も、メモリが広大となった今なら、かなりの自由度を持たせることができる。
 CUI入力の優位性は、コマンドラインインタフェースがOSの標準的入力方法の一つとして残っていることからも明白だ。

 と言って、今後コマンドをキーボードから入力するタイプのゲームが、本流に復帰する事があるかといわれると、かなりそれは厳しい。
 文字が入力できたり読めたりするからといって、語彙力があり適切な言葉が思い浮かぶ、という訳ではない。
 また、コマンドラインインタフェースは、決して主流ではない。

 そんなCUI入力方式の未来は決して明るくはないが、急に滅びてしまったため、多くの日本人にとって「新鮮な形式」であるのも間違いない。
 ゲーム全体の豊かさを考えれば、もう少し流行ってもらいたいもんである。

 そこで結論。

入力方式の多様性はゲームの多様性、CUI入力も頑張って欲しい