喋る主人公

主人公が喋ることによって生まれる効果とは

駄洒落か!
他にもモールモールとかMr.ドリラーとか、掘るゲームって沢山あるなぁ…

主人公が喋る

 さて前回に引き続いて、主人公が喋るかどうかという事にスポットを当てて考察を進める。
 今回は「主人公が喋る」場合に生まれる状況について、スクウェアファイナルファンタジー(以下FF)を中心に考察しよう。
 2019年現在のゲームは音声による表現が一般化しているため「喋る=声が出る」と思われる方もいるかもしれないが、本稿で語るのは文字であれ音声であれ、主人公が台詞を持っているものについて語る。

 ゲーム以外のメディアにおいては、主人公が喋らないなんて事はよほどの実験作でもない限りない。
 そのため、多くのゲームで無自覚・無批判に主人公が喋っているように感じる。
 ゲームになじみの無い人は、喋らない主人公を先に読んで、ゲームでは主人公が喋らない理由を確認してほしい。
 色々と批判も多いFFだが、おそらく全てのシリーズで制作前に主人公を喋らせるか喋らせないか熟考し「決断」し、喋る方を選択している(はずだ)。
 実際、シリーズ当初は喋ってなかった。

 物語要素が薄くなりゲーム要素が高くなると、ゲームの主人公が喋る事の問題点は理解しやすい。
 例えばボードゲームのコマが、次の手を勝手に選択したり、今の気持ちはこんなだとか言い出したら、邪魔な事この上ない。

 逆に、物語の中心となった場合に主人公が喋らないと、物語そのものが崩壊する可能性がある。
 例えば、主人公の肉親が殺されるという展開があったとして、主人公が喋らないと衝撃的なシーンも何とも淡白な印象しか残さない。

 喋らないRPGの代表であるエニックスドラゴンクエストⅣの5章オープニングでは、主人公が喋ってはいけない状況を用意して、衝撃的な展開を発生させるという職人的な上手さを発揮している。
 シリーズの他の作品でも、長いイベントは主人公が動けない状況が多い。

プレイヤーは傍観者となる

 優れた物語は結局一本道であり、そうである必然性があり別の結末など無い。そこにプレイヤーの介入は許されない。
 喋らない主人公は、ドラマの外に存在する事により、物語への介入を避けたが、喋る主人公の場合は、ドラマの中心は主人公自身である。
 しかし、物語にプレイヤーの介入はいらない。
 結果、物語のためのイベントシーンは強制され、プレイヤーは傍観者の立場になる。

 主人公が喋らないシステムであるドラゴンクエストⅣでは、夢の中のできごととして主人公が知らない事件を見せる、という手法がとられている。
 主人公が喋るシステムの場合、夢の中とか水晶玉や監視カメラの向こう側のような、回りくどい事をしなくても主人公のいないシーンを挿入できる。
 そもそも主人公とプレイヤーの距離があるので、突然別のシーンに切り替わったとしても、それはやはり他人の距離の範疇だからだ。

 主人公が喋らないとドラマの主役となれず、主人公は物語から外される。
 主人公がドラマの主役になるには喋らざるを得ず、プレイヤーは物語から外される。
 これがゲームの持つ、ドラマとの整合性の悪さであり、根本的問題点の一つだ。

 とは言え、完全にドラマからプレイヤーを外してしまえば、そんなものゲームじゃなくても良いわけで、その点はFFも自覚的だ。
 例えば、ちょっとした例では「そのまま聞いてね」と言われた後、プレイヤーの選択が奪われていたとしても、それは「プレイヤーが何もしない事を選択した」という体験効果がある。
 またFFでは時間に限りのある脱出系のイベントも多く、最終的な結果は同じでも、時間に追われるため頑張ってプレイしたという体験は強く残る。
 そんな感じの体験効果を大小さまざまに組み合わせているのがFFであり、インタラクティブメディアでないと成り立たない体験であり物語、となり得ている。

主人公はクリア方法を言わない

 もしゲームの中の主人公がクリア方法を話すと、プレイヤーが主人公を操作しているのではなく、主人公がプレイヤーを操作している状態になってしまう。
 そんな訳で、主人公はクリア方法を言わない、というか言えない。
 この事は、プレイヤーには直感的に理解される事である。

 そもそも主人公が喋るのは、物語の主役になるために喋るのである。
 主人公の台詞は物語上重要であっても、ゲームプレイ上はさほど重要ではないので「ゲームをしているプレイヤーは主人公の台詞なんか、真剣に聞きゃしない」という状態になってしまう。
 これもまた、ゲームと物語の収まりの悪さのひとつである。

 ただ、ナレーション的な役割をしている時は特に主人公がしれっとヒント言うことは、かなり一般的だ。
 ナレーションの場合は主人公自身を客観的に見ている状態なので、主人公が喋っていたとしても、それは他人に近い。
 例えば、過去の出来事として「この出会いが後で重要な意味を持つなんて、その時は思いもよらなかった」とかあからさまなヒントを主人公が言っても、さほど違和感はない。

記憶の限界

 喋らない主人公の場合は物語は主人公の外にあるので、住人に話しかけるなどして何度も繰り返し現在の状況を確認できる。
 しかし喋る主人公の場合は物語は主人公自身にあるので、現在の状況が容易には確認できない。
 特にRPGは、物語を追っていく以外の興味を引く事柄が多い、ゲームをプレイしているうちに主人公の状況に興味が無くなってきて、すっかり忘れてしまいがちだ。

 これを回避するには、後で一度見たイベントシーンを再生するためのシステムを用意すれば、ある程度解消される。
 ぜひ、RPGでは既に通過したイベントシーンを再生できるようにし、アドベンチャーゲームは幾らでも簡単にストーリーを遡れて、繰り返し読めるようにしてほしいものである。例えば、チュンソフトのように。

 ゲームの中に自然に組み込むには、日記システムが効果的である。
 他のキャラクタから見た主人公という視点であるため、物語を立体的にすることもできる。
 あらすじや、イベントシーンの再生とは違い、日記はプレイヤーを読む気にさせる事も重要だ。他人の日記は読みたいものだ。
 この辺は以前相棒というシステムでも書いた。

 勿論、仲間やその他のキャラクタが、繰り返し状況を語ってくれてもいいが、主人公の事ばかり話題にするのは、町の人は勿論、仲間であっても不自然であり、限界がある。

主役で居続ける事の困難

 長いプレイ中、主人公の持っている行動の動機を、プレイヤーも持ち続けるのはエネルギーを使う行為である。
 TVや映画のように、何もしてなくても話が進むメディアならともかく、プレイヤーが話しを進めないと成り立たないゲームでは、最初は、よしやってやろうと思っていても、しだいに疲れてくるし飽きもくる。
 行動の動機がプレイヤーの中で希薄化してくるのだ。

 そこで、長編になりがちなRPGは区切りを用意して、主役を変え群衆劇化していくのが解決法のひとつだろう。
 そういう面からいくと、ドラゴンクエストⅣが採用した、オムニバス形式はFF向きな手法である。
 FFと同じスクウェアのロマンシング サガシリーズのような複数主人公形式もいい。
 ただ、やはり優れた物語は一本道であるのが基本だ、分岐のあるゲームと同様に、そこそこいい物語を幾つか用意するのがせいぜい、下手すると駄作の羅列に終わってしまう危険もある。

 動機を次々と与えてやるのも手ではあるが、だんだん何の動機で行動しているのか分からなくなってくる。
 また、先に述べたように、ひとつひとつの動機を覚えきれずに忘れてしまい、結局動機が消えてしまうのも危険だ。

 ただこれは、クリアまでにかかる時間が長過ぎるのが問題で、喋る主人公の持つ本質的な問題ではない。
 とはいえ、主人公が喋るタイプのゲームは長いゲーム向きではないとは言えそうだ。

演技のゲーム

 自分とは違う人格を体験(演技)するというのも、ロールプレイの面白みのひとつである。
 例えば、異性が主人公として設定されている場合、いくら喋らないと言っても普段の自分の感覚でプレイするというのは無理というものだ。
 ならば、積極的に自分と違うキャラクタをプレイする、というのもアリだろう。
 喋る主人公の場合は、演じるべきキャラクタが最初から設定してある、と考えることができる。

 その場合、重大な問題が発生する。
 ひとつは、プレイヤーがキャラクタの性格を把握するのに時間がかかるか、最後まで把握できない可能性。
 更に問題なのは、プレイヤーがそのキャラクタの性格を気に入らないという可能性だ。
 そうなると、喋る主人公のゲームは悲惨である、プレイが苦行と化してくる。
 となるとプレイヤーに理解しやすいように、また嫌われないように、ある程度ステロタイプな主人公の性格設定を行う必要がある。
 しかし、喋る主人公は物語性を高めるために導入されるのであるから、ステロタイプな主人公では面白みに欠ける。

 漫画等の原作付きのゲームの場合は、主人公の性格が既にプレイヤーに理解されており親しみがある点では、格段の作りやすさがある。
 ただ残念ながら、他は極めて作りにくい要素が満載なので、原作付きだと面白くなるというものでもない。

リアルな画像との整合性

 プレイステーション程度だとまだポリゴンキャラでも抽象化された記号的な雰囲気があったが、ハードの進歩とともにグラフィックも記号から離れて、現実感の強いキャラクタになってきた。
 前回の喋らない主人公では、リアルなムービーでも頑に喋らないのには大きな違和感があると言った。
 そうなるともう、喋るしかないのである。
 音声で!
 現実(リアル)がそうだから!!

 結果として、「表現力が上がったせいでゲームの幅が狭くなってしまった」という事だ。
 音声で喋るゲームがあること自体は否定しないが、音声で喋られると、その間操作ができないあるいは限定的となってしまう。
 インタラクションが面白みの中心であるゲームとは、折り合いが悪いのは間違いない。
 ゲームの台詞表現に関してはゲームと台詞の関係メッセージと音声にも書いたので、そちらも参照して欲しい。

 台詞の文字もリアルかどうかの観点からすると違和感がある筈だが、映画の字幕やTVの様々な文字装飾が存在するため受け入れやすい。
 とはいえ文字表示をOFFにできるゲームも増え、最初からOFFであるゲームも出ているので、文字表示はテレビの文字放送のような機能になりつつある。

中間的手法

 ハドソン天外魔境など、基本的には喋らないが、イベントムービーでは喋るというパターンもある。
 この場合、事前にプレイヤーにキャラクタの特性を周知させておいて、そこから外れない範囲で喋る必要がある。
 そのため主人公が基本的には喋らないにもかかわらず、喋る主人公に近いシステムとなる。

 任天堂ゼルダの伝説 夢をみる島やクエストタクティクスオウガのように、基本は喋らないが選択肢として(はい/いいえ ではない)台詞が出る折衷的な手法もある。
 これはプレイヤーに行動を選択させる意思が働いているので、どちらかというと喋らない主人公に近いシステムと言えるだろう。

 そこで結論。

喋る事、それは主人公が物語に参加するためのパスポート