ゲームにおけるストーリー
ストーリーが良いゲームとは、どう評価すべきものなのか
ゲームにストーリーは必要か
ぶっちゃけた話、ゲームにストーリーはなくても十分にゲームたり得る。
例えばブレイクアウト(ブロック崩し)にテトリスに、ストーリーはない。
しかしこれらは名作であるし、十分夢中になれるゲームである。
ゲームにストーリーが必要かと問われれば、「必要でない」と言い切っても構わないのである。
雰囲気としてのストーリー
タイトースペースインベーダーは、ゲームとしては、上からおりてくる標的が「インベーダー」である必要はない。
ブロック崩しと同様に、四角い的があればゲームとして成立するのである。
しかし、インベーダーがあの独特の動きをしながら画面下に迫ってくるからスペースインベーダーは日本中を狂わすほどのブームとなったのである。
プレイヤーはゲームそのものの面白さだけでなく、ゲームの持つ雰囲気に夢中になったのである。
それをさらに押し進めたのがナムコゼビウスであったのは言うをまたない。
古典ゲームでも「チェス」など、駒に意味や意匠を持たせることで、戦場の雰囲気づくりをしている。
それらがルール以上に「チェス」の魅力となっていることは否定できないだろう。
ゲームの裏に潜む物語に想像を膨らませることによって、ゲームをプレイする面白みが増す。
つまり「ストーリーがゲームをさらに面白くする」のも事実なのである。
ルールの説明としてのストーリー
任天堂ドンキーコングはゲーム開始前にコングに女性がさらわれる。
この演出(ストーリー)によって、プレイヤーは上にのぼって行かなければいけないということを自然に理解できる。
つまり、ストーリーがルールの説明として使われている訳である。
「画面上まで到達するとあなたの勝利となります」と、ルールを説明されるよりもずっと分かりやすい。
プレイヤーがどうするべきかの動機付けを行いスムーズにルールを理解させる道具として、ストーリーは有用であると言える。
アドベンチャーゲームにしろロールプレイングゲームにしろ、まずルール説明のためにストーリーは存在している、と言っていいだろう。
ストーリーのためのゲーム
「ストーリーを語るためにゲームを利用する」のは、あまり賢い方法とは言えない。小説を書くべきだろう。
もちろん、小説では味わえない感動がゲームにはある。それはゲームが素晴らしいからであって、ストーリーが素晴らしいからではない。
感動したゲームのストーリーを単純に文章に置き換えると、もの凄く低レベルなものに思えるが、それはゲームが低レベルである訳ではない。
そのストーリーがゲームのために存在していたものだから、ゲームを取ったら成立していないだけだ。
成功したら誉めてくれに書いたように、ストーリー的に陳腐でもなんでもゲームが上手く進行しているなら褒めるしかない、という点もゲームとストーリーとの相性の悪さのひとつだ。
ここでゲームのストーリーのみを取り出して語る危険性に気付いてほしい。
それはゲームの評価にならないことはもちろん、ストーリーの評価にもならない。
ゲームのストーリーは、ゲームのルールと不可分であるのだ。
参考:死にすぎ王子 と 虹の王女は、私がストーリーとゲームをどれだけ上手く融合させることができるかに挑戦したゲーム。
そこで結論。
ゲームのためにストーリーがある