成功したら誉めてくれ
クリアしたら、おめでとう、ガキじゃないんだから
すごいでちゅねー
ゲームをクリアしたら、コンピュータ様から「おめでとう(Congratulations)」とねぎらいの言葉がかけられる。
そのことに白々しさを感じたことはないだろうか。
世の中というものは、努力が必ずしも報われるものではない。しかも、大量の人を殴り倒したり、あまつさえ殺したりしておいて、「おめでとう」と「お誉めの言葉」を貰うのは、いかがなものだろう。
それは自然な考えである。
良く頑張りました、良くできました、さすがです、上手い、サイコーです。
たかだかこの程度のことができたぐらいで、「よくできまちたねー、すごいでちゅねー」ってオレは幼稚園児かっつーの。
ゲームに夢中になってしばらくたつと、こんな感想を持つこともあるだろう。
誉める他ない
別稿でも述べる予定だが、ゲームは成功したか、失敗したかががはっきりプレイヤーに伝わらなければいけない。また、その理由が判らなければいけない。
これはゲームの基本的な原則、それも大原則といっても良い。
つまり、ゲームというものは構造的に、成功したら誉めなきゃ成立しないところがある。
成功したのに「ダメだね」と、言われたらプレイヤーはそれを失敗だと判断するのだ。
また、世の中には、はっきりした成功というものは多くないものだが、ゲームは成功を定義しておかないとルールが成立しない。
誉められると嬉しい
そもそも、誰だって誉められると嬉しいもんである。それが、単なるおべっかとわかっていてさえ、皮肉だと気付いている時でさえ、ちょっとは嬉しいものである。
反論もあろうが、案外、人間というやつは、そのあたりの作りは単純にできている、と私は思っている。
具体的な報酬を与えることができないゲームにおいて、「誉めてもらえる」ってことは、実に強い誘引効果のある仕掛けなのである。
あえて、この効果を避けるのは、ゲーム制作者にとって大冒険とも言えることである。
ゲームにおける代表的な抽象的報償であるスコアとゲーム内通貨については、スコアスコアスコアおよびゲームのカネ、現実のカネで書いたので参考にしてほしい。
なお、同様に報償として利用されている経験値については、また稿を改めて語りたい。
誉めないとどうなる
そんなわけなので、成功したプレイヤーを誉めないゲームはアンチテーゼ的な意味合いではアリだが、ゲームの主流とはなりえない。
小説や映画のような一方通行のものならば、主人公が少々の不幸に見舞われようと、「可哀想に」と傍観できるが、ゲームの場合のプレイヤーは主人公の傍観者ではない、主人公そのものである。
苦労したのに誰も認めてくれない、そんな不幸を体験するのはプレイヤー自身なのだから、その報われなさはより一層しみる。
小説以上に辛さ儚さを表現したと評価もできるが、プレイヤーがゲームの途中で放り出す危険がそこにはついて回る。
さらに問題なのは、ゲームの目標が曖昧になってくることだ。
成功と失敗のルールをプレイヤーが確認する手段の一つとして、この「お誉めの言葉」があるのは間違いない。
それがないということは、「成功と失敗の区別がつかなくなる」ということだ。ストーリー的には進展したとしても、「お誉めの言葉」がないとプレイヤーは疑心暗鬼になり、リセットボタンに手を伸ばす。
理解されるヒーロー
主人公が常に報われることは、物語としては愚劣といってもいいほどのものだ。その点からすると、ゲームのヒーローは誉められ過ぎるし、必ず報われる。
プレイヤーは報われないことはしないのだから、これはもうしょうがないのである。
愚劣だろうがなんだろうが、ゲームであるためには努力は報われ、成功したら誉められる。
最近は報われないエンディングも少なくないので、「誉められるべき」と言うべきか。
誉めておかないとゲームの骨組みが崩れてしまうのだから。ゲーム制作者は、余計なことは考えずに力一杯誉めて欲しい。
そのような構造的制限から、ゲームはストーリーを語る手段とはなりえない。少なくとも、適した手段ではない。
ただし、「ゲームでない何か」がコンピュータを利用したストーリーテラーとなりえる可能性を否定するものではない。
現在そのような「ゲームでない何か」に、実際は相反する「ゲーム」以外の適当な名前がないのが問題だ。
そこで結論。
誉めてくれ、勇者様、英雄様、救世主様と誉めてくれ