集める楽しみ
コンプリート…なんて素敵な響きなんだろう
埋まると嬉しい
ゲームには、色々な面白さがあるが、その中の一つに、集める楽しみがある。今まで埋まっていなかった部分が「埋まる楽しみ」と言ってもいいだろう。
最終的には完全制覇(コンプリート)が目標な訳だが、その楽しみには以下の条件が必要だ。
- 増えたことが分かる
- 有限である
- 最大の量が分かる
まず、当たり前だが、増えたことが分からなければ、集めようとも思わない。
次に、金銭のように、いくらでも増えていくものではいけない。
コンプリートではない集める楽しさの方向として「数字が増えると嬉しい」というのがあって、それはまた項を改めて書きたい。
同じ種類のもので、コンプリートを目指すアイテムの条件には、取ったらなくなること、つまり個数が固定されなければいけない。
アイテムを全種類を集めるということでもいい、その種類のものを一つ手に入れたら、後はいくら同じものを手に入れても種類は増えない。アイテムの種類は有限だから、コンプリートを目指すことができる。
もう一つ重要なのは、最大の量が分かっていること。このことが目標となり、収集意欲を高める。
収集の達成率が100%以上になるゲームもたまにある。
これはいけない。
なにせ100%を目指してプレイヤーは邁進してきたというのに、いざ目標に到達と思ったら、そこはただの通過点であることが判明するわけである。
100%埋めた後、次の100%に挑戦というのならばともかく、完全制覇すると106%になるなんてのは、裏切り以外の何ものでも無い。止めてほしい。
ついでに言っておくと、全てのプレイヤーが完全制覇100%を達成しないと楽しくないかというと、そんなことは無い。
70%もいったら満足ということでも、完全制覇の楽しみは無いが、埋めていく過程そのものの楽しみは存在する。
マップが「埋まると嬉しい」
少しずつ踏破した地域が増え、マップが丁度「埋まると嬉しい」、これは集める楽しみと同じ楽しみである。
踏破地域を増やしたいということは、ほとんど人間の本能的な欲求といってもいい。
ただし、目標とする大きさが分かっていることが前提条件だ。
例えば、サーテックウィザードリィは1階が20×20のマスのマップだったが、Vでは不定形になった。
これは先に上げた条件からすると、大失敗と言える。いつまでたっても完全になったという感覚が得られないからだ。
マップは、奇麗にマスが埋まるから嬉しいのだ。そこに部屋があるかどうか調べたいがために、MALORを唱えて壁の中へ決死のダイブを敢行したプレイヤーも多いのではないだろうか。
地図をぴったり全て埋める、その行為は、それほどの魅力に溢れている。
ゲーム初期は、それぞれのプレイヤーが紙に地図を書いていたものだった。
面倒だとか敷き居が高いと言われるマッピング(地図書き)だが、最近はオートマッピングで、より多くの人が地図を埋める喜びに触れることができるようになっている。
アートディンクアトラスのように、マップを埋めていくことそのものが目的のゲームさえ登場している。
地図を埋めていく、マッピングは楽しいのだ。
アトラス世界樹の迷宮のように、あえてオートマッピングを排して、プレイヤーにマッピングを行わせることをシステムの中に取り込むという手法も出てきた。
社名がアトラスだけに、地図になにか拘りがあるのかもしれないが、マップを自分でしっかり描くということがプレイヤーの楽しみとなる、という事を明解に示した例と言える。
アイテムリストが「埋まると嬉しい」
アイテムを完全に収集できると、征服したという気分が高まる。
極初期は、アイテムはゲームをクリアすると必然的に全て揃うものだったが、暫くすると無くてもクリアできるアイテムも登場し、そのことがアイテムを全て集めたいという欲求を生んだ。
アイテムが「埋まると嬉しい」という欲求は思いのほか高く、集める以外に役に立たないアイテムも登場している。
例えばエニックスドラゴンクエストシリーズの小さなメダルのように、収集そのものを目的とするアイテムも珍しくない。金銭とは逆の方向性で、集めるのが主目的で、アイテムを手に入れることは従である。
他にも、データイーストメタルマックスシリーズのように、単に金を消費するだけで、何の役にも立たないインテリアというアイテムも存在する。
最近では、かなり多くのゲームで、集めること以外は何の目的も無いアイテムが存在する。これはアイテムリストが「埋まると嬉しい」という喜びが、一般的なものであることが証明されたといえる。
シナリオが「埋まると嬉しい」
少々ビンボ臭いがプレイヤーは払ったお金の最大限を回収したい、つまりシナリオを全て見たいという欲求がある。
特に気に入ったゲームなら、全分岐を調べたくなるものだ。
昔のアドベンチャーゲームはシステムとして既にプレイした分岐を表示するなんてことはなく、プレイヤーがそれぞれノートに分岐図を書いていくっていうのが、シナリオの「埋まると嬉しい」の楽しみ方だった。
最近では、分岐図を表示するのが一般的になった。オートマッピングのシナリオ版である。
これはシナリオが「埋まると嬉しい」のは、なにも特殊な喜びでは無く、一般的な喜びであったことの証左でもある。
わりと美少女系のアドベンチャーゲームで多いシステムで、画像のコンプリート率を表示するってものがある。
これもゲームを全て楽しんだという証明であり、分岐図表示と同じような意味を持っている。
トロフィーケースが「埋まると嬉しい」
トロフィーあるいはアチーブメント、エンブレムという形で、ゲーム中で達成したことを記録するシステムが一般化している。
トロフィーの条件は何でもありなので、トロフィーは上記の要素も含む包括的なコレクションシステムとなっている。
ちなみにトロフィーという用語はZorkで使われているのが、私の記憶では一番古い。
この時は取得したアイテムをトロフィーケースに格納する事で実績を記録するシステムであり、トロフィーには持ち物としての実物感があった。
ドラゴンクエストVのリメイク版にある名産博物館が近いイメージだ。
現在のトロフィーシステムは、トロフィーメニューを開くと獲得した条件が並んでいるという感じで、実物感は薄い。
さて、トロフィーは集めることも勿論だが「次の目標」として有効に働いている。
ゲームをやっていると、ふと「もうこのくらいでプレイ止めて良いんじゃないか」と思う瞬間がやってくるが、そこに「敵の撃破数1000」とかの達成目標が提示されると、そこに向けてプレイする気が起きてくるから不思議だ。
目標の最大のものはエンディングであるが、トロフィーにより目標が小刻みになることで、途中で放り出す事が少なくなり、進行状況に関するコンプリートであるエンディングへと到達する気を沸き立てるものとなっている。
更には、エンディングを迎えた後のやりこみプレイへ自然に誘導する役割も持っている。
オートの功罪
これらはすべて、昔はマニアがノートにちまちまとメモって楽しんだものを、システムに取り込んで自動的に記録されるようにした、という履歴をもっている。
そのことで、それほど熱心で無いプレイヤーも、これらのことに楽しみを見い出すことができるようになったのだが、逆にプレイヤー自身が取ったメモに比べて、「薄味」となったことも確かである。
古株のゲームプレイヤーならば、自分で取ったゲームのメモの一つや二つはあるだろうし、そうやってクリアしたゲームの思い出は深いのでは無いだろうか。
そこで結論。
集めてぴっちり埋めること、それは征服の証