お手軽なクリエーター感
ゲームはプレイヤーが介入して完成するという未完成な作品である
未完成作品
ゲームのプレイヤーはリーダー(読者)であると同時にクリエータ(創作者)であるといえる。
ある程度の完成形が用意されていて、製作の最終段階を購入者が行うことが、ジクソーパズルやプラモデルと似ている。
言うならば、ゲームは小説やドラマ(に限らずだが)のプラモであるわけだ。
ゲーム制作者の立場から見れば、ゲームであるためには、完成品を作ってはいけないということだ。
組み立て塗装済みのプラモは、プラモでは無いのと同様に。
ゲームが、完成品を鑑賞するものであるか、作る過程を楽しむものかといえば、それは圧倒的に後者なのであるから。
勿論、完成品の需要はあるが、それがゲームであるかどうかは別の話である。
ゲームにおいて創造的な部分は多いので、今回は幾つかピックアップしてみてみることにする。
きちんと体系だてて調べていないので、思い付くところを並べて誤魔化しているとも言う。わはは。
育成と創作の類似
RPGや育成ゲームでコツコツとパラメータを上げていくのは、実はキャラクターであるとかの育成対象物を作っているともいえる。
基本的にとにかく時間をかけると、確実に創作物が出来上がる。
自分が作り上げたものには愛情も湧くというわけで、ゲームでは、手をかえ品をかえ使われている手法である。
演技的創作
アクションゲームなどは、プレイヤーが演技者であると同時に、観客でもあると言う、極めてライブ感のある創作と言える。
カッコイイ動きはゲームの得点やクリアになんら関係なかったとしても、つい狙ってしまうものである。その時プレイヤーは創作を行っているのである。
アクションゲームにおけるリプレイは、自分が作った作品の鑑賞の場である。
また、アーケードゲームは演技の発表の場の意味合いがある。
創作の面白さの抽出物
プラモデルを作ることが創作かといえば、首を傾げる人も多いだろうし、ゲームのプレイが創作かについても同じであろう。
そのお手軽さは、逆にいえばゲームとは、創作の難しく面倒な部分をはしょって、どんどん作品が出来上がっていく楽しさを抽出したものともいえるのだ。
そりゃ楽しいわけだ。
お手軽であるが故に、失っているものも多いとしても。まず楽しみに至るまでの道程の短さは評価される価値がある。
逆にお手軽な筈のものに、そこまでやるなら一から作った方が楽じゃないかというような情熱を注いでしまうのも、また入り口が広い故の事だろう。
そこで結論。
受けるだけでない、作る楽しさがゲームにはある
2019年追記
2019年現在はいわゆる「ゲーム実況動画」が隆盛を極めている。
動画(や攻略情報)だけでプレイした気になってゲーム批評を行う「エアプ」といった困った現象もよく見かけるようになった…というか僕自身もやりがち。
旧来のゲームは「誰がやっても同じような絵面」になるため、動画を見た段階で購入意欲が削がれてしまうということが起きている(ようだ)。
ただし「ゲームをやっているのを見る」という行為は、eスポーツでも発生する状況で、ゲーム文化の発展・定着には外せない状況だと思う。
逆に、任天堂スーパーマリオメーカーなどのコンストラクションや、Mojangマインクラフトをはじめとするサンドボックスは人気だ。
もちろんプレイすること自体が楽しいのだが、これらは個々人でマップを作るものなのでプレイが同じになることがなく、動画として変化があり面白い。
また、いわゆるオープンワールドと言われるゲームは攻略ルートが一定でなくリアクションが豊富なので、動画のバリエーションが生まれる。
今や動画として広がることを前提としてゲームを作ることが当たり前という状況だ。
実況動画については、そのうち稿を改めて…書けるといいなぁ。