映画的ゲームの存在理由
映画的ゲームは誰に必要とされ、その魅力とは何なのか
ゲーム作家の憧れ?
とあるゲーム雑誌を読んでいると「ゲーム作家なら、誰でも映画のようなゲームを作りたいと思うもの」てなことが書いてあった。
いきなり結論を言ってしまえば、映画のようなゲームより映画の方が面白い。
映画と同じ方法論を取って映画を超えられる筈がないし、映画に近付けていくとゲームが疎かになる。そんな事はすぐに判る。
もちろん、二次元の映像メディアという同じ特性を持っている両者であるから、互いに同じ方法論が通用する場面もあるが、根本的には全く違うモノである。
映画のようなゲームは結局「映画の出来損ない」か「出来損ないのゲーム」にしかなれない。
なのに何故か、映画的ゲームは魅力的らしい、その理由はどこにあるのか。以下で検証してみる。
ここでは、特に「映画的ゲーム」を「映画のデッドコピー」というネガティブな意味で使う。
ポジティブな意味での「映画的ゲーム」は、また別稿で語りたい。
経営者にとっての魅力
経営者にとって、映画的なゲームは何度もプレイする性質が無い、よってプレイヤーの飽きが早く、次から次に新作を売る事ができる。
つまり、映画的ゲームは短期の消費サイクルを作りやすいのである。
また、ゲームの売り上げを左右するゲーム雑誌が持つ二次元の静止したメディアの特性から、どうしてもゲーム画面が多く取り上げられ、伝えにくいゲーム性や音楽は後回しとなる。そしてゲーム画面で見栄えが良いのはイベントシーンであることは言うを待たない。
つまり、映画的なゲームは宣伝しやすいのである。
これらの予想は、一面の真実ではあるだろう。
しかし、商品は購買者あっての商品である。最終的には、ゲームの購買者であるプレイヤーが求めているから売る、ということが経営者にとっての商品であろう。
プレイヤーにとっての魅力
さて、なぜゲームのプレイヤーは映画的ゲームを求めるのか。
一つは、プレイヤーとしては自分で考えるのはめんどくさいし、操作するのすらも億劫だから、映画的なゲームはどんどん先に進んで楽で良い。また、派手な画面は見て楽しいし、ゲームばっかりじゃ飽きる。なんてパターンだ。
要は、映像を見たいのであって、特にゲームをしたいわけではない場合である。
懸命な読者は「映画やビデオクリップ見りゃ良いんじゃないの」と思っただろう、その通りである。ゲームを止めてビデオ屋に走れ。
もう一つの理由は、モノサシとしての「ゲーム」を持たないということだ。なぜなら、より良いゲームを測るモノサシは、いまだ作られていないからである。
そこでプレイヤーは、もっといいもを測るモノサシとして既に知っているものを出さざるを得ないことになる。
この場合は、より二次元映像作品として浸透している「映画」である。
本当は「もっと面白いゲーム」が遊びたいのだが、適当なモノサシが無いので「もっと映画みたいなゲーム」と換言してしまうのだ。
つまり、もっと面白いゲームを、制作者が供給することができれば、問題は無いわけだ。
制作者にとっての魅力
制作者が、ゲームを作るのが仕事のはずなのに、映画のデッドコピーを作ってしまうのはなぜなのか。
プレイヤーと同じ視点でゲームを作ってしまっていることがあり得る。ゲーム制作者としての想像力の不足と言い換えることもできる。
それだけならばコトは簡単だ。ゲーム制作者のレベルが上がればいいのだ。
しかし、ゲーム制作者にとって、映画的ゲーム製作の魅力は確実に存在する。
それは「映画が作れることに尽きる」と思う。逆にいえば、これ以外の魅力は「ゲームを隠れみのにして映画を作る」行為には本質的に無い。
ここでも懸命な読者は「じゃあ映画作れよ」と思ったことだろう、その通りである。
ただし、プレイヤーとはずいぶん事情が違う。日本で映画を作るより、ゲームのふりして映画作った方が、よほど映画が作れるのである。
このことがゲームの映像的なレベルの向上の一端となっていることは間違いないので、一概に否定はできないのではあるが、ゲームの向上の足枷となっていることも、また事実であろう。
邦画に元気が無いこと。ここが一番根の深い部分で、この部分が解消されない限り、映画的ゲームは作られ続けると考える。
そこで結論。
頑張れ日本映画。ゲームの向上のために
2013年追記
この記事を書いた2002年から大分たつので、2013年現在の状況を書いておく。
邦画が頑張る、ってのとは別の方向でなんだか問題は解決されてきたように思う。
映画的ゲームは、技術的に熟れてきてゲームとしても映像の見栄えとしても、高い水準で両立してる。
ハード・ソフトの能力向上により、プリレンダのムービーに頼らなくても、絵的に十分に魅力的なものとなっているのだ。
映像的には受け手は(おそらく殆どはPS2レベルで)十分満足してしまい、もはや豪華な映像のゲームは以前ほど求められなくなっている。
日本では2013年現在、モバイル端末上の収集・育成系のゲームが流行しており、映画的なゲームはプレイが負担となり、むしろユーザを敬遠させる面すらある。
映画的ゲームというか映画のゲーム化の場合、特に米国に於いては企画段階からゲームでの展開が前提とされる事も珍しくなくなり、映画のゲーム化=クソゲーである率が低くなり、ある程度のレベルが維持できるようになってきた。
日本では映画ゲームはほとんど作られてもいないし、米国から映画ゲームが入ってきて流行する、ということもない状況だ。
このように映画とゲームの融合は、結構いい感じのところに着地しようとしているように見える。
そこで結論。
映画的ゲーム、かなりしっくりと融合してきた
2019年追記
Twitter対応タグを追記したついでに2019年の状況を書いておく。
コンシューマでは2013年に発売されたPS4が5年以上たってもバリバリの現役で、最初に持っていた性能の高さが十分以上であったことが証明されている。
このこともあって、映画的ゲームのソフトウェア的な品質向上が劇的に進んでいる。
PS3でHEAVY RAIN 心の軋むときを出したクアンティック・ドリームがPS4のデトロイト ビカム ヒューマンで高い洗練を見せ、インタラクティブシネマのインタラクティブの部分が強まった上でシナリオ・映像の融合が進んでいる。
カットシーンも完全に独立したムービーだけで構成されることは減り、PS1の時代は視線を動かせる程度のごく僅かなインタラクションであったが、PS3でThe Last of Usを作ったノーティードッグがPS4ではアンチャーテッド 古代神の秘宝のように車での移動中に自然に会話が交わされ車から降りて中断後、再度車に乗り込むと自然に会話を再開する、などゲームシーンとの境がないレベルのものまで出現している。
またスーパーヒーローものではPS3のRocksteady Studiosバットマン アーカム・アサイラムがもっとも評価の高いゲームと言われていたが、PS4のインソムニアックゲームズMarvel's Spider-Manは「映画の中に入り込んだようだ」などと絶賛され、日本でも好評だ。
上記ゲームはソニーと深い関係がある会社が作成しているし、本家SCEサンタモニカスタジオゴッド・オブ・ウォーもあり、映画的ゲームに関してソニーの躍進が著しい。
蛇蝎のごとく嫌われていたQTEだが、多くのゲームの中で洗練された形で採用されており「QTEだからダメ」という状況から「QTEの使い方がダメ」と言える状況になっている。
参考メッセージと音声
そこで結論。
ゲームはもはや映画を追う必要がなくなった